シリーズ: 好きな場所で、好きな人と

支え合うしくみ

新しいオフィスに移って、三か月。
朝の光の角度にも、商店街のざわめきにも、
もうすっかり馴染んでいた。

午前中の納品帰り、
パン屋の前を通るとバターの香りが漂い、
向かいの花屋では母の声がした。

「圭介、ここにいたの?」
振り向くと、母がエコバッグを提げて立っていた。
「ここの花、長持ちするのよ。
 事務所に一本どう?」

そう言って差し出されたのは、
白いカスミソウの束だった。

「ありがとう。ちょうど打ち合わせ終わったところ」
「じゃ、ついでにお昼でも食べて帰るわ」
母は笑って、商店街の奥に消えていった。

そんな風に、母が買い物のついでに事務所へ顔を出すことが、
最近では珍しくなくなっていた。
時々、孫――圭介の息子――を連れて来ることもある。
「おばあちゃんとおやつ買ってきたよ」
そんな声が事務所のドア越しに響くと、
スタッフたちの顔も自然とほころんだ。

——

母とは同居していない。
「自分のペースで暮らしたい」という母の希望もあり、
家から歩いて十五分ほどのアパートで一人暮らしを続けている。
それでも、何かあればすぐ駆けつけられる距離。
“ちょうどいい近さ”だった。

——

妻もまた、この数か月で環境が変わった。
長年勤めていた制作会社を退職し、
地元の建材メーカーの広報に転職したのだ。

「ずっとあなたの話を聞いてて思ったの。
 “地元で働く”って、生活と仕事のバランスが違うんだなって」
そう言って笑う妻の表情は、
青山にいた頃よりずっと柔らかかった。

朝は家族三人で朝食をとり、
昼には母が買い物の途中でふらりと立ち寄る。
夕方、オフィスの灯を消して帰ると、
近くのスーパーから同じ顔ぶれが帰ってくる。
そんな繰り返しの中に、
穏やかで確かな“循環”が生まれていた。

——

ある夕方、事務所で陸が言った。
「ここ、ほんとにいい場所ですよね。
 駅前にカフェも多いし、空が広い」
中原が笑ってうなずいた。
「朝の電車も逆方向で空いてるし、
 何より、仕事に“余裕”ができた気がする」

圭介は二人の顔を見て、
「巻き込んで悪かったな」と言った。
中原は首を振った。
「いえ、こっちに来て良かったです。
 “設計”って建物だけじゃなくて、
 生き方そのものを組み立てる仕事なんだなって思いました」

その言葉に、圭介は静かにうなずいた。
設計とは、暮らしの仕組みを描くこと。
そして今、自分たちはその“仕組み”の中に生きている。

——

夜。
母の家に息子を迎えに行くと、
テーブルの上に一枚の絵があった。
家と会社、そして商店街。
その間を、一本の道がゆるやかに繋いでいる。

「これ、僕のまち」
息子が誇らしげに言った。

圭介はその絵を見つめながら、
胸の奥で静かに息を整えた。
働くことも、暮らすことも、
誰かと支え合うことの上に成り立っている。

母が通う商店街も、
妻が勤める会社も、
自分たちの事務所も、
全部この“まちの仕組み”の中にある。

圭介は明日の図面を思い浮かべながら、
小さくつぶやいた。

好きな場所で、好きな人と。
それはもう“願い”ではなく、
“日常の構造”になっていた。