シリーズ: 好きな場所で、好きな人と

動き出す予感

翌朝、いつもより少し早く事務所に着いた。
机の上には、昨夜高瀬から受け取った不動産資料。
“駅前・角地・元学習塾”の文字が目に入る。

コーヒーを淹れていると、中原と陸がほぼ同時に出社してきた。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどいい、話がある。」

二人が席につくと、圭介は静かに切り出した。
「昨日、高瀬と話してきた。例の再開発の件だ。
 二年以内に、ここを出ることになる。」

中原が少し目を見開いた。
「やっぱりそうなりますか……」
陸は黙って頷く。

圭介は続けた。
「で、高瀬が地元で物件を見つけてきた。
 駅前の角地で広さは今の倍。家賃は半分以下だ。」

中原が笑った。
「それ、うちから電車で三駅ですよ。
 しかも朝は逆方向だから座って行けます。
 今より通勤がずっと楽になりますね。」

「迷わないんだな。」
「通勤時間が減って、朝の打ち合わせに余裕ができるならむしろ歓迎です。
 僕らがやってるのって、“住所”より“内容”じゃないですか。」

圭介は少し驚いた。
自分にとって“場所”は看板であり象徴だった。
だが中原にとっては、“働きやすさ”の一要素でしかなかった。

陸が笑いながら言った。
「僕も賛成です。
 正直、都心のワンルーム、高いだけで狭いんですよ。
 最初は“せっかくなら都心で”と思って引っ越したんですけど、
 気づけば休日もほとんど家にいて、
 食料品を買いに行く以外、出かけることもほとんどなくて。
 だったら、もう少し広くて落ち着ける場所のほうがいいなって。」

「お前、引っ越す気か?」
「はい。これを機に考えてます。
 家賃下がれば広い部屋にも住めますし、
 オフィスが広くなるってだけでテンション上がります。」

中原もうなずいた。
「スタッフ増えるかもしれませんね。」

そのとき、デスク横のモニターにZoomの通知が現れた。
桐谷からの定例の招待だ。
画面がつながると、少し遅れて声が響いた。

「おはよう。なんか今日は顔が明るいな、柚木。」
「ちょっと話があってな。事務所、引っ越すかもしれない。」
「そうか。地元だろ? いいじゃないか。
 俺もリモートになってから思うけど、
 “どこでやるか”より、“誰とやるか”の方が大事だよ。」

桐谷はいつも通り飄々としていたが、
その言葉に、なぜか背中を押された気がした。

圭介は笑ってうなずいた。
「ありがとう。……家に帰って、妻にも話さなきゃ。」

——

昼過ぎ、デスクの上のスマートフォンが鳴った。
画面には「高瀬」の名前。

「話、してみたか?」
「した。みんな、意外と前向きだったよ。」
「だろ? お前が迷ってるから、周りも動けなかったんだよ。
 動き出せば、ちゃんと風は吹く。
 あの物件、押さえておくぞ。」

「……お前、どこまで段取りしてるんだ。」
「最初から全部だよ。
 “戻ってくるなら全力で支える”って決めてた。」

電話を切ると、事務所に静けさが戻った。
窓の外では午後の日差しがビルの壁を照らし、
机の上の資料の端に、淡い光が落ちていた。

中原が言った。
「本当に、動くんですね。」
「たぶんな。」
「だったら、今度の現場、片付いたら一度見に行きましょうよ。」
陸が笑う。
「そうそう。青山より光がきれいなオフィス、見てみたいです。」

圭介は三人の顔を見て、小さく笑った。
――動き出すのは、自分だけじゃない。

その夜、帰りの電車の窓に映る街の灯が、
どこかで、もう“過去の場所”になりつつあるように見えた。