シリーズ: 好きな場所で、好きな人と
再開発の知らせ
朝、いつものようにコーヒーを淹れていると、
スマートフォンに新着メールの通知が光った。
差出人は、ビルの管理会社だった。
件名にはこう書かれていた。
【重要】再開発計画に伴う入居テナントへのご案内
本文を開くと、四角い枠に整然とした文面が並んでいた。
当エリア一帯における再開発事業が正式に認可され、
当ビルにつきましても2027年度を目処に順次解体工事を予定しております。
現入居者様には移転支援金および代替施設のご案内を別途差し上げます。
柚木圭介(ゆずき・けいすけ)は、しばらく画面を見つめていた。
「築浅で、まだまだ使える」と思っていたビルが、あっさりと“再開発対象”になった。
都心では“古さ”の基準が、他の街よりずっと早くやって来る。
昼、事務所でスタッフの中原と佐藤陸に話す。
「二年以内に立ち退きだ」
「引っ越し、ですね……」と陸。
「最近、クライアントの打ち合わせもオンライン多いし、
都心じゃなくてもいいのかもしれませんね」
中原が笑って、「それを言っちゃ終わりだな」と返した。
そう言いながらも、どこかで同じことを感じていた。
“住所が信用だった時代”は終わったのかもしれない。
——
午後、定例の打ち合わせに顧問税理士の高瀬が来た。
高校時代のバスケ部の同級生で、創業時からずっと担当してくれている。
鞄から資料を数枚取り出し、テーブルに広げた。
「ちょうど言おうと思ってたんだ。
お前、そろそろ本気で“場所”を考えた方がいい」
「再開発のこと、知ってたのか?」
「噂は聞いてた。で、これ見てみろ」
不動産の募集図面が数枚。
見覚えのある地元の駅前。角地、日当たり良好。
間取り図には“元学習塾”の文字。
「ちょうど空くんだ。
家から五分だろ? しかも広さは今の倍。
家賃は青山の半分以下」
圭介は思わず顔を上げた。
「……準備してたな、これ」
「してた。前から言ってただろ?
“地元でやれ”って。
あの辺、最近動いてる。商店街の改装や、店舗設計の話も出てる。
“柚木さん紹介してくれませんか”って、昨日も言われたくらいだ」
高瀬は書類を揃えて言った。
「この数年、お前は仕事を“守る”ことに集中してた。
でももう、“場所”を守る必要はない。
青山でやってきた実績は、どこにいても変わらない。
――これは、絶好の機会だと思う」
言葉が、静かに響いた。
“絶好の機会”――税理士がそんな表現を使うのは珍しい。
彼が数字の上でも、感情の上でも確信している証拠だった。
——
しかし圭介の胸には、別の思いがあった。
“俺だけの話じゃない”――。
中原も、陸も、この場所で人生を組み立ててきた。
突然の移転は、ただの環境の変化ではなく、
それぞれの生活を揺るがすことになる。
自分ひとりなら、もう決めていただろう。
でも、背中には“チーム”という重みがある。
それを無視して動くわけにはいかない。
「……わかってる。でも、簡単じゃない」
圭介がつぶやくと、高瀬は穏やかに言った。
「簡単な決断なんて、そもそも存在しないよ。
大事なのは、“続けられる選択”かどうかだ。
それだけ考えればいい」
その言葉が、妙に胸に残った。
圭介は黙って、机の上の図面を見つめた。
そこには、まだ描かれていない“余白”があった。
そしてその余白こそが、
次に描くべき線を待っているように見えた。














