シリーズ: 好きな場所で、好きな人と

置き去りにしたもの

朝の街は、まだ冷たい光に包まれていた。
大通りに面したビルの三階。
窓の外では、整然と並ぶビルのガラスが朝日を跳ね返している。
この街で働き始めて、もう十五年が経つ。

柚木圭介(ゆずき・けいすけ)、四十四歳。建築設計士。
独立したのは三十五のときだった。
会社が合併の混乱で解散し、
長年同じチームで働いていた二人――
中原(なかはら)と桐谷(きりたに)――とともに、
都心の片隅に小さな事務所を立ち上げた。

現在、桐谷はコロナ禍をきっかけに実家へ戻り、
リモートで業務を続けている。
図面のレビューや打ち合わせは、
Zoomや共有画面を使って行うのが日常になった。
直接会う機会は減ったが、
毎週のオンライン定例では変わらず冗談を飛ばし合っている。

事務所の最年少スタッフは、佐藤陸(さとう・りく)。
大学を出てすぐ入社したが、
図面の精度も早くから安定しており、
細かな気配りや柔軟な発想で、
チームの雰囲気を明るくする存在だった。

「住所が都心にある」――
それだけで信頼された時代だった。
クライアントの多くがこの周辺にオフィスを構えていたから、
青山に拠点を置くのは、ほとんど“必然”のようなものだった。

結婚したのは独立の少し前。
妻も同じ業界で働いており、
互いの職場に通いやすい場所として、
事務所から二駅ほどのマンションを選んだ。
夜遅く帰っても街は明るく、
休日でも時間がせわしない。
けれど、若かったふたりにはそれが心地よかった。

子どもが生まれたのは三年後。
妻は一度仕事を離れ、やがて復帰した。
圭介の仕事も順調で、
家で過ごす時間はますます減っていった。

母は郊外の実家でひとり暮らしをしている。
電車で一時間もかからない距離。
正月や子どもの誕生日には顔を出していたが、
それ以外は、行く理由を見つけられなかった。

「いつでも帰れる距離」――
そう思ううちに、帰らないことが当たり前になっていた。
気づけば、季節がいくつも過ぎていた。

夜、事務所の灯を落とす。
街のざわめきが静まり、
遠くでタクシーがブレーキを鳴らす音が響く。

終電はもう過ぎている。
歩いても帰れる距離だが、
最近は、街の角に並ぶ電動シェアスクーターを使うようになった。
アプリで解錠し、スロットルを軽くひねる。
モーターの低い唸りが、静かな夜気に溶けていく。

風が頬を撫で、
街の灯が滑るように流れていく。
高層ビルの隙間を抜けながら、圭介は無意識に思った。
――この街の構造を、誰が設計したんだろう。

十五年働いても、
描き続けた線の先に、
“本当に作りたかったもの”はまだ見えていない気がした。

自宅近くの駐輪スペースにスクーターを止め、
アプリに表示された「返却完了」の文字を眺める。
その一瞬、仕事と生活の境目が、奇妙にぼやけて見えた。

マンションのエントランスに入ると、
ポストの前に深夜帰りの住人が立っていた。
お互い軽く会釈をする。
誰もが忙しそうで、
誰もが少し疲れて見えた。

エレベーターの中で、
スマートフォンの画面が点いた。
妻からのメッセージ。

――「明日も早いんだから、無理しないでね。」

圭介は小さく息を吐き、
返信を打とうとして指を止めた。

都会の夜は明るいのに、
ふと、どこか暗い。
そんな思いだけを抱えながら、
彼は部屋のドアを静かに開けた。