シリーズ: 近さがつくる、未来のかたち。
徒歩5分の職場
母の退院から一か月。
朝の空気に、少し湿った土の匂いが混じっていた。
窓を開けると、
通学路を自転車で走る中学生の声が聞こえる。
丸の内の喧騒とは違う、
生活の音がすぐそこにあった。
再就職先は、家から徒歩五分。
小さな設備会社の営業職だ。
建材メーカーで培った経験が生かせると言われ、
面接のその日に決まった。
最初は、正直ためらいもあった。
ビルの受付もなければ、
名刺に英語表記もない。
でも、初日に出迎えてくれた社員たちの笑顔を見て、
その不安はすぐに消えた。
出社の道。
朝、角を曲がると、もう会社が見える。
通勤ラッシュに押し込まれることもなく、
出勤前に母の顔を見てから家を出る。
コーヒーメーカーの音が小さく響く台所。
母は「いってらっしゃい」と言いながら、
トーストを焼いている。
職場は十人ほどの小さなチーム。
社長は五十代、元職人。
社員同士の距離が近く、
昼休みには誰かが必ずアイスを配る。
午後は営業車で地元を回る。
川沿いの道、商店街、古い住宅地。
信号待ちの間に、
前を歩くお年寄りが買い物袋を落としたのを拾って渡す。
そんな何気ない時間が、
なぜか心地よい。
ある日、仕事で寄った取引先の工場で、
顔なじみの従業員に声をかけられた。
「相模さん、この前お母さんのとこ寄ったよ。
庭の木、だいぶ伸びてたから切っておいた。」
驚いて礼を言うと、
「いいっていいって、通り道だから」と笑った。
母が一人で暮らしていた頃、
そんなことは一度もなかった。
けれど今は、
この町の人たちが自然に気にかけてくれる。
それが、どれほど安心なことかを知った。
夕方、仕事を終えて会社を出る。
日が落ちかけた道を歩きながら、
遠くに自分の家の屋根が見える。
帰る途中、スーパーに寄って
母の好きな惣菜を買う。
レジ袋の中で、温かい湯気が少し上がる。
玄関を開けると、
「おかえり」と母の声。
その響きが、
一日の疲れをやわらげる。
夜。
冷えた銀色の缶を開ける。
あのキレと辛口の一口。
今日は少しだけ、味が違って感じた。
動画サイトのニュースを流しながら、
ソファに体を預ける。
画面の隅に映る街の光景が、
どこか自分の暮らしとつながっているように見えた。
“近い”というのは、
ただ距離の話じゃない。
誰かの顔を思い浮かべながら、
働ける場所があるということだ。
それが、
相模誠一の新しい仕事の形だった。














