シリーズ: 近さがつくる、未来のかたち。

退職の知らせと、母の倒れた日

私は相模誠一(さがみせいいち)。
四十七歳。
丸の内の大手建材メーカーで営業課長をしている。

入社して二十五年。
朝は駅前のコンビニで、紙カップに注がれるコーヒーを買う。
スリーブ越しの温かさが、まだ眠る頭をゆっくり起こしてくれる。

会議の前には、つい“あの5個入りのからあげ”を買ってしまう。
カウンターの奥から聞こえる、油が弾ける音。
その匂いを吸い込むと、なぜか少しだけ元気になる。

昼はビルの地下の定食屋。
湯気の向こうで、照り焼きとアジフライが交互に並ぶ。
その繰り返しが、安心だった。

夜は帰宅して、冷蔵庫から一本。
銀色の缶をプシュッと開ける。
あのキレと辛口が好きだ。
一口飲むと、一日の疲れがすっと引いていく。

動画サイトでニュースを流し見する。
アプリのおすすめには、時事ネタやインタビュー動画。
音だけ聞きながら、コメント欄を眺めていると、
いつの間にか時間が過ぎていく。

そんな日々を、何の疑問も持たずに続けてきた。

その日も、いつもと同じ午後。
会議を終えて席に戻ると、メールの通知が点滅していた。
件名は「今後のキャリア選択に関するご案内」。

経営体制の見直しに伴い、一定年次以上の社員を対象に
「セカンドキャリア支援制度」を実施いたします。

穏やかな文面だった。
けれど、“一定年次以上”という言葉の中に、
自分の立場が静かに浮かび上がって見えた。

四十七歳。
若くもなく、老けてもいない。
それでも、組織の歯車の中では「次の世代」に席を譲る年齢なのだろう。

画面を閉じると、蛍光灯の光が少し白く見えた。
同僚の声が遠くで聞こえる。
何も変わっていないはずなのに、
このオフィスの空気だけが、少し違って感じた。

夜。
帰りの電車は満員で、
吊り革を握ったままスマホの画面をぼんやり見つめる。
SNSには、同級生が地元で新しい店を始めたという投稿。
コメントを打つ気にもならず、
そのまま画面を閉じた。

その時、スマホが震えた。
見知らぬ番号。

「お母様が倒れました。病院に運ばれています。」

瞬間、視界がぼやけた。
アナウンスも、人のざわめきも、全部遠くなった。

二時間半後、病院。
廊下に響く靴音と、消毒液の匂い。
面会時間は過ぎていたが、
看護師が気を利かせて、カーテンの隙間から母の姿を見せてくれた。

白いシーツの中で、母は静かに眠っていた。
手を握ると、少し冷たく、驚くほど軽い。
「大丈夫だよ」と声をかけながら、
その言葉が自分に向けられたものだと気づく。

帰り道。
夜風が頬を撫でた。
街灯の下で、歩道に落ちる自分の影が揺れる。
コンビニの看板が遠くに光っている。
思わず寄りたくなったが、足が止まらなかった。

家に帰ると、テーブルの上に湯のみがあった。
飲みかけの緑茶。
淡い茶渋の輪が一つ残っている。
その跡を見た瞬間、胸の奥が静かに締めつけられた。

時計の音がやけに大きい。
自分の暮らしてきた時間と、母の時間が、
違う速さで流れている気がした。

翌朝。
通勤バッグを手に取る。
何年も使った革の感触。
なのに、昨日よりもずっと重く感じた。

窓の外では、人々が駅へ向かって歩いている。
その背中を見ながら、
心の中でつぶやいた。

「もう、ここで頑張る理由はない。」

それは、逃げるための言葉じゃない。
ようやく、自分の心に正直になれた瞬間だった。

母の家に戻ろう。
そこから、もう一度はじめよう。

それが、相模誠一の新しい朝の始まりだった。